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西条陣屋について(考察)  三木秋男(48回)

 *道前会報 第17号 平成21年3月1日号より

 以前から、西条陣屋(現、西条高校) の建物やそこで働く侍たちについて興味を持ってきたが、今もって何ほどのことも分かっていない。

 前号で、北御門(姫御門は愛称と思うが?)の記事を拝見したこともあり、幕末、陣屋の建物にはどのようなものがあり、そのうち、今どのようなものが市中に残っているかなど、不十分ながら纏めておくのも意義があろうと思い、貴重な紙面を汚すことになった。なお、『西条市誌』(久門範政編)や『西条報恩会誌』(塩出光雅編著)などを参考としたが、判断の決め手のないものもあり、積極的に疑問符を付けておいた。この機会に会員諸氏のご叱正とご教示を頂ければ幸いである。
 

一柳氏の築城

 ■寛永十三年(一六三六)、伊勢 国神戸(かんべ)から初めて入封した一柳直重(なおしげ)は、大町村に仮住まいするかたわら、陣屋の築造や町並みの区画造りに着手した。葦(あし)の生えた湿地帯と川の流れを利用して堀を巡らし、泥をかき揚げて土塁を造り(「かき揚げ城」)、石垣を築き、中が見えないように黒松を植えた。黒松の間には矢来(やらい 竹や丸太を縦横に粗く組んで作った仮りの囲い)を造った。

 方形、単郭(たんかく 土塁や堀が一重)、出入りの少ない直線的な構造は、平和の時代を反映した城主の居館・政庁としての性格を伺わせる。

 ■第一次西条藩、一柳家は三代三〇年で改易となり、天領五年の後、第二次西条藩、御三家紀伊徳川家の分家・松平氏が入り、一〇代、約二〇〇年を経て明治二年(一八六九)の藩籍奉還を迎える。一柳氏が城の縄張りをしてから実に二三三年である。

 ■この間、陣屋の建物は何度建て替えられたであろうか。はっきり分からないが、私は三回程度とみている。もちろん、その一は一柳家の創建である。しかし、この絵図はまだ見たことがない。

 その二と考えられるものに(?)、松平氏の始め頃だろうか、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に『伊予国西条松平家文書』があり、この中に、「西条御屋敷廻方角分間(ぶんけん)絵図」と「陣屋指図(さしず)」という図面がある。「分間」とは縮尺、「指図」は絵図と同じである。大体、この種の陣屋絵図というのは非常に珍しい。なぜなら、殿様のお屋敷内のこと、一般庶民に公開するものではないからである。
 

幕末の陣屋内絵図 (藩邸の図)

 その三は『西条市誌』に掲載されている「幕末頃の藩邸の図」である。歴代藩主を祀る西条神社に所蔵されている図面をもとに作成したと説明がある。
 

幕末頃の藩邸の図(西条市誌に一部加筆)

現在の西条高等学校

 
そのとおりで、『報恩会誌』 のグラビアにも、陣屋の平面図と合わせて、この間取図(明治三年庚午(かのえうま)十一月、西条藩御陣屋御私邸図)が載せられている。

 試みに両図を重ね(建物は市誌をベースにする)、敷地に対して建物がどう建っていたかを示したのが掲載の図面である。両者の縮尺が異なるため不正確であり、参考図程度と承知してほしい。なお、局(つぼね)の二階平面図は省略し、建物や部屋の名称なども、本稿の目的に合うよう適宜選択し凡例に示した。

 ■A・政庁(政事(まつりごと)を執行する所。現在、校舎が建つ辺り)とB・奥(殿様の私邸・グラウンドの南西部)の区別、建物の色分け、太い黒線(板廊下) に注目してほしい。

 紫色は殿様の私邸、赤色は主として殿様が政事(まつりごと)に使われる部屋~もっとも江戸定府のこと、めったに御帰国はなかったのだが~、 黄色は客室・御供の部屋(以上、いずれも畳廊下)、緑色は行政の中心で役人共の仕事部屋、青色は湯殿と付帯設備、橙色は局(以上、いずれも板廊下)、白色はその他、正門・玄関・炊事場・運上蔵などを示している。

 建物の周囲には大手門・西御門・北御門・現高校の本館入り口付近の井戸、南西部に庭園(?)・今磯神社、北西部の現テニスコートのあたりに馬小屋(?)と池と矢来で囲まれた構築物(霊廟か、或いは武器庫・火薬庫の類か不明)などがある。
 

現存する四門

 門扉の大きさは大手門・御庭門・北御門・西御門の順である。

■大手門

 大手門の建造年代については、平成十四~十五年の解体修理でかなり詳しいことが分かってきた。
 

大手門

 
 ご承知のように、大手門を含めて現存する四門は、形式上、いずれも「薬医(やくい)門」と呼ばれる部類に入る。もともと薬医門は、門としては中位の格式であるが、室町期に至って、武家屋敷の象徴的存在として次第に姿も整い格調の高い建物へ成長した。

 この陣屋の大手門は、建築様式から江戸後期から末期の建物として特徴付けられる。木鼻(きばなe懸魚(げぎょ)・大瓶束(たいへいつか)など、当時の雛形形式が使われているからと、専門家はいう。

 また、これを裏付けるものとして解体工事で、大棟の鬼瓦に「泉州(せんしゅう)谷川 瓦屋伊兵衛」の「へら書き」が発見された。鬼師のサインである。

 泉州谷川は現在の大阪府泉南郡岬町多奈川(たながわ)であり、淡路島とのフェリーで賑わう深日(ふけ)港の近くである。当時、西条の大きな建物の瓦類は、紀州に接するこの谷川の窯元から入っていたのである。

 さらに一方、藩主の菩提寺・妙昌寺の最近の改築でも、鬼瓦に同一人物伊兵衛の署名があり、傍らに「寛政二年十月」 の日付が発見された。
 

妙昌寺

 
加えて、本堂の棟札より、寛政五年四月、竹内立左衛門の肝煎(きもいり)奉行で落成したことも判明した。

 泉州谷川の古記録によると、瓦屋(瓦師とも)伊兵衛と名乗る人物はただ一人であることから、大手門と妙昌寺は瓦師伊兵衛が生きた時代、即ち「寛政の頃」に造られたものと推論できる。

 事実、藩政時代、地元武士の逸話を記録した「箚記稿(さつきこう)」 (『池畔の柳影』 の一部として塩出光雅氏が翻刻出版) には、「陣屋の大手門は、もともと二間幅の引き戸と三尺幅のくぐり戸があった。大雨や高潮などの時、濠の水が溢れて、引き戸が開かなくて難渋したとの記録があり、そこで、竹内立左衛門は今あるように堅固な用材でもって風格ある開き戸の薬医門に改築したのである。その時の引き戸は、北の御門に使ったが、天保六年未(ひつじ)年(一八三五) に九代藩主頼学(よりさと)公がお国入りになられた際、北御門も西御門も開き戸に変わったのである」と書かれている。

■御庭門(御広敷(おひろしき)門は別称であろう?)

 市内上神拝、大通寺の山門がそれであると言われている。欅(けやき)造り、高さ・幅とも大手門に次ぐ立派なものである。

 

大通寺山門

 
 広敷とは大名邸内の奥向きの所を指すのだが、前述の陣屋図にこの名はなく、奥向きの玄関は御庭門となっている。ちなみに広敷も含め、大名の邸宅には手本としてよく江戸城の名称が遣われる。前 述の白書院・黒書院などもこの類(たぐ)いである。

 この御門が特に立派なのは殿様の権威を示すものであろうか?

 
■北御門

北御門

 
西条藩陣屋には大手門、御広敷門、西御門と北御門があった。
北御門はもと大手門であったが、寛政年間に引き戸だった大手門が改築された際には北堀端の入り口に移設された。版籍奉還後、この門は設置場所を転々と変えた。
平成25年、現在地の西条郷土博物館前へ移転・修復された。

■西御門

 

荒木満福寺山門

 
市内朔日市(ついたち)、荒木満福寺の山門がそれであると言われる。よく手入れされている。寺伝によると、ある町商家からの寄進であるという。

 「百年の校史」を数えると学校も一流であるといわれる。それだけに、私たち旧制中学卒業は遥かに遠い存在となった。常日頃、大手門を眺めるにつけ、校史と合わせて、二〇〇年余の西条陣屋の歴史を懐かしく思う。陣屋の建物が消えていくことは、校史を語る資料を失っていくようにさびしいことである。

 若い卒業生の皆さんに昔の陣屋を知ってもらい、貴重な建物が存在するうちに、手を尽くして保護してもらいたいと願い、ささやかな拙稿をまとめ始めたが、よく分からないことばかり、甚だお恥ずかしいものとなった。お許しを得て後学に期待したいと思う。 なお、本文作成に当たって、西条神社宮司・塩出崇氏(67回)に大変お世話になった。文末失礼ながら厚くお礼申し上げる。

 

大手門ライトアップ

2011年10月14日より、大手門のライトアップを行っています。
   ふだんは日没から23時まで。
   西条祭り(10月14日~16日)とクリスマス・年末年始(12月24日~1月3日)
      まではオールナイトです。
是非一度御見学下さい。