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西条高女の誕生 しら菊の園の誕生

1創立のころ
2新校舎落成移転
3西条高女制服事情


1 創立のころ

 明治39(1906)年、西条町ほか10か村の組合立西条実業女学校の設置が認可され、翌年4月に大師町の隆昌寺と善導寺を仮校舎として、授業が開始された。雨の降る日は暗く、夏はやぶ蚊になやまされたが、温良貞淑・良妻賢母の育成を教育方針とし、総数124名の生徒たちが寺小屋風の教室で勉学に励んだ。

 明治41(1908)年4月に新居郡立実業高等女学校と改称、10月に明屋敷四軒町に3棟の校舎が新築された。 当時、県下どこでも女学校は黒く高い板塀で周囲を囲み、節穴までふさいだ。正門を入ると、校歌にちなんだ姫松と若竹が植えられ、玄関に続く道には白い小石が敷き詰められていた。質素で落ち着いた校舎には、油拭きで光る廊下、清掃の行き届いた教室など女学校らしい雰囲気が漂った。大きなユーカリの木陰で友と語り、生い茂るクローバーの四つ葉をさがしては教料書にはさみ、秋には菊づくりなど、乙女の心を潤し、夢をはぐくんでくれる校庭だった。
 

明治41年 卒業式風景 創立初期

 
 明治41年に校友会誌「白菊」が発刊された。表紙には紫地に白い乱菊一輪がいっぱいに描かれた。『願はくば清く気高く、節あること、白菊の染まりなきがごとく、霜ににほふ如く、人も書も共に世にめでたき進歩発達をとげなむ』ことを願って命名したと発刊の辞に記されている。論説、文苑(散文・和歌)、母校記事、行事報告などが載せられた。 「あやにかしこき」の校歌も制定され、朝な夕な校訓と共に胸深く刻まれた。

 大正13(1924)年に進歩的な考えの校長が就任すると、県下の女学校にさきがけ制服に洋服を採用した。校章は全校生徒から募集した図案を基に作成、新しい校旗も作成され、現在も保存されている。

 強健なこどもを育てるには、母の健康が第一であるとして体位の向上に力点がおかれ、制服の洋服化とあいまってテニス・登山・水泳などが奨励された。

 大正13年に行われた第1回予讃軟式庭球(テニス)大会では今治高女を破り優勝を飾った。同年7月には職員生徒23名で、女人禁制といわれ天狗がすんでいると信じられていた石鎚登山に挑戦した。その後、登山計画が発表されると希望者が殺到した。夏の行事として臨海学校が開設され、全校をあげて海水浴を楽しんだ。
 

 昭和13年7月 石鎚登山記念

 
 城下町西条らしく、上品で礼儀正しい生徒が多く、東は宇摩、西は周桑からの才媛が集まった。明朗で怜悧な生徒達は、研究物、読書感想文、詩歌を載せた冊子「けしの実」を発行した。

 当時の資料によると、本校は県下一の入学難で受験者の成績も大変良好だった。入学試験は、数学、国語、歴史、作文、口述で行われた。授業料は4円50銭、校友会費1円だった。

 

2 新校舎落成移転

 日中戦争(1937~45)が拡大し、戦雲ただよう中で新校舎に移った。木造2階建クリーム色の校舎はモダンで、女性的なやさしさのある建物だった。立派な講堂・作法室・特別教室に生徒たちは喜んだ。8月下旬の炎天下、四軒町から片道30分の道のりを、大八車や乳母車を使い、職員生徒一体となって本や机、本類・運動具などを運んだ。
 

四軒町校舎正門と記念館 昭和13年か

 
 第2学期の授業を新校舎で受けることになり、毎日糠袋で教室・廊下・講堂を磨いた。校庭には、背丈を超える夏草が一面に生えており、生徒は横一列にならんで雑草を引き、湿地には土をいれ、ロ-ラ-でのばしたり、小石を拾ったり、汗だくで運動場を作った。

 日ごとに戦時色が濃くなると、防空訓練が始まり、若い先生は応召した。授業中には出征兵士に贈るための千人針が回ってきた。食糧も乏しかったが、毎週水曜日には日の丸弁当を持参し、前線の兵隊の苦労をしのんで先生と会食した。武道(薙刀)が正課に採用され、勤労奉仕作業が増えた。それでも昭和15(1940)年頃まで東京方面への修学旅行が行われていた。



 その後、時局が緊迫、学徒勤労動員令下4年生はクラレ工場で働き、3年生は半分を工場化した学校で軍需品の生産に励んだ。

 戦後、6・3・3制の実施、男女共学、通学区制の実施とめまぐるしく制度が変化すると、西条中学校に統合され、40年の歴史と伝統を誇った西条高等女学校は西条北高等学校として出発することになった。

 

3 西条高女制服事情

 開校当時、通学時は木綿の筒袖の着物に海老茶色の袴・白足袋に下駄、時折靴も履いた。着物は縞かすりで、縞は布巾にいくつ位と定められていた。雨の日はから傘、夏は日よけに黒い木綿傘をさし、髪は1年から束髪で3・4年生になると、前髪を高くふくらませ、真中は高く束ねて「二百三高地」といった。当時は女学生というプライドをもって颯爽と西条の町を歩いていた。

 学用品は無地の大風呂敷に包み、裁縫用具、ソロバン、絵具皿、筆洗い、時には花まで入っていた。 汽車もバスもなく、氷見・禎瑞・飯岡からも徒歩で、朝星夜星で登下校し、それより遠方の生徒は寄宿舎に入った。

 

授業風景

 
 昭和10年頃、制服は夏は現在とほぼ同じ白い長袖のブラウスに紺のジャンパースカートになった。冬はセーラー服で、黒い線とネクタイだった。セーラー衿には白いピケのカバーをつけ、その衿カバーをいつも清潔にパリッと糊をきかせることが身だしなみだった。夏冬共に黒の木綿の長いくつ下を履くこととされ、帽子はなく、真夏には柄だけ赤い黒のこうもり傘をさして通学した。
 

Photo

校門

 

西条駅前での西条中学校・西条高女生徒 昭和14年